そもそものきっかけ
不動産関連の職業につけたらいいなと思い、建物を勉強するために大工になりました。人生で最も高価だと思っていた家を自分で作れたら、借金もせずに楽に生きていけそうだと、そんなことを思いながら工務店での修業が始まりました。
お客様を恨みながら
一棟の住宅をつくるにはたくさんの『工』(様々な分野の職人さんたちのこと)が不可欠です。その『工』を束ね建物を完成へと導く存在を『工』の頭に大をつけ『大工』と呼んだ(もちろん一説だとはおもいます。)と聞いたことがあります。現代の現場監督みたいな存在に近かったのかも知れません。実際に今日でも住宅を作る現場では、大工の現場滞在時間はその他の職種に比べて桁違いに長く、おのずと現場の管理、監理 運営を行う立場になっていることが多いように感じます。一棟の住宅を作るには膨大な量、種類の仕事が存在しますが、昔はそのほとんどをやってしまう大工さんもおられたようです。現在は(個人的感想ですが)過度の分業化によりかかわる人間の数が多く現場の運営は一筋縄ではいかない印象です。大工の仕事は難しいものもありますが、素人でも簡単にできるものまでとても幅が広く多種多様です。約5年間工務店に勤めました。本当にたくさんのことを教わりましたが、この5年間がもの凄くキツかった。きつくてきつくて自分に余裕が無くなり、ついにはお客様を恨むようにまでなってしまいました。
不思議とオーダーメイド
人生の買い物の中でオーダーメイドで作るものが一体どれだけ存在するでしょうか。スーツのオーダーメイドなんてことは聞くこともないわけではありませんが、高価で手が届かないような印象があります。ほかに自分専用にあつらえて何かを頼むなんてことがどれくらいあるでしょうか。車でさえ車種、グレード、色、オプションくらいでしょうか。人生で最も(個人差はあるでしょうが)高価であろう住宅をオーダーメイドで作る。そんなことが当たり前の住宅市場。私には不思議としか思えません。思えなくなってしまいました。
こんな家、欲しくなかった
お客様に言われました。『こんな家、欲しくなっかた』。大金をはたいてやっと手に入れた家が自分の欲しいものではなかった。起こってはならないことが起きてしまいました。完成した家を目の前にどうすることもできませんでした。まだ見ぬものをものすごい高い値段で売るのだからとてつもなく難しい仕事だと思い知らされました。
これ、絶対無理じゃね?
住宅を新築あるいは改修などをした方々からいろいろとお話を伺うことがあります。その内容はすべて『うまくいかなかった』というものです。そんなお話を聞きながら私は、
①悪い業者っているんだな
②悪い業者ってたくさんいるんだな
③建築業者ってみんな悪いんじゃないのか
経験が増えるにつれ、こんな感じで業界の印象が変わっていきました。
次に
④悪い業者の話しか相談されないのだな(よい業者だったら相談することはないのでは)
と思うようになったのですが、それにしても多くないか?と疑問を持っています。
ものを買うのと違って、家を建てたり直したりというのは、母体数は多くはないのに(単純に自分の生活の中で他のものと比べて圧倒的に回数が低い)、トラブルや不満を抱える方がたくさんいるのか。
母体数の少なさ、つまり個人にとっては経験の少なさ、もっと言えば初めての経験、家を建てるなんてことは人生で初めて!というケースがほとんどではないか。その初めて経験する家づくりで『大成功!!!』を手に入れようとするわけですから、失敗なんて許されないわけですから・・・・初めてやることなのに絶対に失敗しないで大成功にしないといけない・・・・
3回建てなきゃ満足のいく家なんて建てられないと聞いたことがありますが、実際3回建てた方にもお会いしてお話を伺えたこともありますが、現在私は、満足のいく家づくりは不可能だと思っています。
そのためにあんたたち住宅のプロがいるんでしょ?
初めてやることを失敗せずに大成功に導くために『プロ』がいるのではないか。とすると私はプロではないことになります。実際に初めてやることを失敗せずに大成功に導くことは私には出来ません。今後どんなに経験が増えようとも不可能だと思っています。仮に満足される方と出会っても、それは私ではなく私以外の因子によって導かれたものでしょう。
俺は悪くない!全部周りが悪いんだ!
こっちは目一杯、ギリギリでやっているのに、なんでわかってくれないんだよ。と承認欲求のモンスターのような時期がしばらく続きました。悪いのは全て自分以外、どうすれば私のことがわかってもらえるのか、私が考える理想の住宅が理解してもらえるのか、ただただ頭の中で考えているだけの苦しい時間でした。私のベクトルは、他者を一番とする職人ベクトルではなく、私自身に向かう芸術家ベクトルになっていました。俺が俺がのアーティスト気取りだったわけです。千差万別、百人百様、十人十色、三者三様、各人各様、蓼食う虫も好き好き。あることがきっかけで、人はみんな違う、ひとはいろいろだと、人のことが理解できるなどとは思い上がりだと、私のことはだれにもわかるはずがないと、今頃になって気づかされました。日常、自分とは違う人間に囲まれて生きていると思うようになり承認欲求というものは自然と薄れていきました。
結論、無理!
分かり合えない他人同士(気の合う人がいることを否定しているわけではありません。)、家づくりを企ててから恐ろしい速度で急接近、見られたくない、知られたくない所をさらけだして少し恥かいたり・・そりゃトラブル起きるでしょう。必然です。距離が近くなりすぎるんです。程よい距離感はとても難しい。ひとつ屋根の下、外から帰れば常に一緒、仲の良い家族よりも、ギクシャク家族のほうが絶対数は多いのではと思っています。他人が見ても気づかないだけです。人に頼んでモノを作ってもらって、100点満点の合格を出せるなんてのは無理。そんなさみしいことをあらかじめ覚悟しておかなくてはいけないのではないだろうかと。(自分の力不足をはるか彼方に棚上げしてます。)奇跡的な出会いを手に入れた方を除く全ての方々が、何らかの妥協をして、不満を抱えているのだと想像しています。
不満はわいてくるけど、欲求のほうがどうも・・・
作り出されたものの悪いところは見つけられて不満は認識できるんです。でもどう変えれば満たされたものになるのかよくわからないんです。私は完成したものを見返しながら常に迷っています。『おぉ!いいじゃん!』と思ってもすべて勘違い(他人の評価と一致しない)です。人それぞれなんだから勘違いは必然だと、そもそも勘違いではないと思うのですが、それでは人のためにモノづくりなんでできないんです。とはいえ、根掘り葉掘り急接近すればそれはそれでうまくない。程よい距離感を保ついい方法はないか。極論ですが、飛躍しますが、答えになっていませんが、『自分でつくる』これ以外にないと思っています。以前に悪い業者しかいないというような表現をしましたが、そうではなく様々な理由で悪い業者(私もそのひとりなのかも)とされてしまっているのでは。一緒に働いてくれる職人さんたち『自分でつくる』を実行している同業は、共感しやすいのもあるかもしれませんけど、いい人が多いです。癖のある人もいますけど。実力のない人にはイライラもしますけど。いい人だけどいい職人さんとは限りません。いい人だけど良い業者さんとは限りません。いい人でもその作り出すモノとニーズとにギャップがあれば悪い業者とされることもあるのでしょう。
解決方法は建売、半建売。
建売はいいと思います。実際にモノを見てから買う決断を出せますから。売る側も楽です。とはいえ住宅には見えない部分が多く存在しますから、欠陥が潜んでいる可能性もあります。そこまで突っ込んで見ることができればいいのですが、壊さないと見れない部分もありますので、全て確認するということは不可能でしょう。もっといいなと思うのは半建売です。大枠を作ってもらって、細かい部分はDIYで作るということです。個人差があるでしょうから、例えば一棟を建築するのに100の仕事量があるとした場合、100できるプロといろいろな力量の施主さんとがタッグで完成を目指すということです。工作などが不得手な方にとっては作業がほとんど出来ず一般的な注文と変わらないかもしれませんが、タッグで作るといった意識が加わることは大きな意味があるように思います。むしろ自分で作るという意識を強く持ったほうがいいような気がします。自分で作るにあたって、1から99までは出来ないので職人さんを呼ぼうとか、1か5まではやってもらって後はゆっくり自分でとか、1から100までレクチャー付きでとか、ケースによってさまざまな持ち分が考えられます。また、自分でやることで作り出すモノのクォリティを自分基準で仕上げられる大きなメリットがあるように思います。仕上りのクォリティについては、正直作り手の独りよがりな部分が大きなウエイトを占めており、そしてこの独りよがりが大きく価格に影響を及ぼしています。『その次元は求めていないよ』『そんなこだわり言われなきゃ分らないよ』『なんでこんなダサいのかね』などと感じることが実は高額になる因子だったりするのです。時には無茶な取付方法、非合理的な取付方法、欠陥になる可能性のある取付方法、維持管理の困難を招く取付方法を生み出してもいるのです。
言い訳を許すスキが生まれる
自分で選択していないものは、言い訳をするスキを自分自身に与えてしまいます。気に入らないことが露見すると責任逃れをするんです。よって他人の求めに応じて何かを提供する場合、このスキを与えないような、高品質で完成度の高い感動を与え圧倒するようなものである必要があります。中途半端では即クレームです。あと完成品を確認してもらい、自ら選択していただくという方法もあるでしょう。このクォリティの追求やゴールの確認作業がDIYでは不要となります。常に自分自身での選択の繰り返しですから全ての責任は自分にあることが明確であり、言い訳をするスキが生まれません。
ゼロストック
先日、自宅の解体を予定している方のおうちに出かけてきました。先代が集めた木材があるので引き取れないかという相談でした。このような相談は地域がらもあるでしょうが珍しくはありません。昔の方の木材への執着は、その貴重さが身に染みていることから、非常に強いものです。こんなものまで保管していたのかとあきれるほどです、と言いたいところですが、製材技術の低かった時代ですから納得できます。今回も、現代ではほとんど使われなくなったものがほとんどでした。たとえ引き取っても不良在庫になることは明らかでしたが、すべてお受けしました。材料一つ一つの背後にあるものがひしひしと伝わってくるからです。昔の人の仕事にはいつも圧倒されます。さて、木材はひとまず運び終えたのですが、もうひとつ気になることがあります。それは解体予定の家屋のことです。これがとても素晴らしい建物で、おそらくこだわりのある方だったのではないかと想像はつきますが、壊すのはもったいないというのが正直な感想でした。できることなら丸ごと引き取って移築して残したいと思うのですが、移築したところで使うかどうか、必要なものになるか否かは苦しいところです。日本中で空き家問題が取りざたされておりますが、自分の作ったものではなくても、住宅がお荷物扱いされるのは決して気分の良いものでありません。また、まだまだ使える、むしろ高品質の住宅を邪魔者扱いして壊す(壊すのもままならず放置しているケースも多数)ことは、国力を(大げさでしょうか?)削ぐことにつながすような気がしてなりません。命をかけて多くの資本を投じて作った住宅をあっさりなくしてしまったら、そんなことを繰り返していたら、一向に豊かな国になるはずがないとおもえてくるのです。
みんな自分でやっているにもかかわらず
生物のほとんどは自らの住処を自力で作っている印象があります。他者の力を借りて住処を調達することは珍しい種としてあえて取り上げられ語られることがあるように思います。ということは人間も生物としてみれば珍種に属するのではないでしょうか。自力で住処を調達できない、というよりは自力で調達できないほど高次元の住処を当たり前のように欲してしまっているのではないでしょうか。私の祖父は自力で小屋を建てていました。小さい頃はなにも感じずその小屋で遊んでいたものですが、祖父は生きるために最低限の小屋ぐらいは自力で作れていたと思います。そしてその小屋は、理由は分かりませんが現在無くなっているのですが(今残っていたらぜひ見てみたいと強く思います)、祖父が自分で壊して処分したのだと想像しています(思い出せません)。うろ覚えですが、オシャレや快適とは程遠く、外壁の隙間から中に光が漏れるような木造平家建でしたが、雨風をしのぎ地震を耐え抜き物置としての機能を全うしその生涯をとじたと思っています。もの凄くかっこいいなと思います。祖父も小屋もそしてその取り巻きすべてがものすごくカッコ良かったなと憧れています。
鳥の住宅 犬の住宅 牛宅
人間の住処は住宅と呼ばれますが、その他の生物の住処は住宅とは呼ばれません。鳥の巣、犬の小屋、牛舎などと呼んでいます。人間が住処をDIYで調達しようとした場合、現代の住宅の入手は不可能に近いものだと考えています。人間も地球上の生物であるととらえれば人間の住処は『人間の巣』ということになり、現代の住宅と比較して格段に低次元の必要最低限度のものになり、それが自然なのではないかと思っています。現代の『快適』とは程遠い、生命を維持するための最小限の粗末な空間程度を調達するのがやっとでしょう。しかしながらその粗末な空間をDIYで調達できた場合の感情は、他人に造ってもらった超快適空間を手に入れた場合と大きく異なるでしょう。
DIYの対岸で
自分の事は自分でやることがDIYであるならば就職はその反対ということだと思います。就職するとは、自分の事は一切やらないでいいよという契約です。徹底して自分のことはほったらかして、ある限られた事だけを集中的にやるのです。自分以外の他人のために徹底的に時間を割くのです。そうすることで、ある限られた事が効率的に高品質で他者に届けられるということになります。就職のおかげで、会社という人類が生み出した高度な仕組みのおかげで、今日の生活水準が得られ維持されているのだと思います。
他者を否定する
私は、反射的に他者を否定してきました。その否定する対象は年齢とともに広範囲に広がり強度も増していきました。そのことをずっと悩んできました。自分の性格は下の下で腐りきっていると思って(?)いたのです。自分自身を心底嫌うことはなかったのですが。自分は性格の悪いダメな人間だと思っていても不思議と生きてこれました。偽善ぽく言えば生かされてきたということでしょうか。現在、私はこのことで悩まなくなり、常々反射的に自分以外のほとんどを否定して生きています。これは自分の力では止められないと諦めました。反射的に他を否定してしまう、そして自分を肯定し優位に立っていると言い聞かせることで、自分を維持してきました。他者を否定することは生きるために必要な能力なのだと解釈しています。人の不幸は蜜の味。他人を蹴落とす。他人の足を引っ張る。相手の弱点を突く。出る杭は打たれる。生きながらえるためにもともと備わっている能力だと感じるようになってきました。
自分ひとりじゃ苦しくて苦しくてそれでも
自分の事は自分でやるということはとても苦しいです。本来は当然のことだったのだと思いますが、現代では自分のことは他人にやらせるのが当然のことになっています。私は自分の事を全て自分でやるのが目標?夢?ですが、とても無理だろうなとほぼ諦めています。しかしそれでも自分の事を他人にやらせず自分でやろうとすることをやめようとはしません。私はなかなかの弱い怠けものの人間で、自分でやろうとすることはものすごくきついのですが、やっぱりやめられないのです。ただの独りよがりも所詮同じ穴の狢なんでしょうけど。
まるっきりひとりになれば
まるっきりのひとりになってしまったらさほど強い欲求も生じないのではないかと想像してまいす。あれこれ欲深くなる前におのずと楽な道を選択するのではないでしょうか。生命の保証がなされていれば、ひとりで生きていくうえで、苦労してまで手に入れたいものなどそう多くはないのではないかと思います。世の中にある様々な提案に触れ要否の判断を誤り、そもそもそんな判断などすらせず流され、逆らう力は、またそんな発想はいつまでたっても備わらない。インプットが少なくなれば自分の内から生じてくるものなどどれ程のものか。生命の保証が揺らいだ時、恐怖というエネルギーに突き動かされ時には悪いとされていることでも血眼になって人は何でもやってしまうのではないでしょうか。
すれっすれのギリギリのところで綱渡り
自分の事を全て(ほとんど)人に押し付けて自分は何もしないで生きていく。何もかも自分の周りは他人が用意してくれたもの。自分の意思が介入できるようでその余地は全く(ほとんど)ない。一部の人によって洗練され高度で快適で優れた生活のありとあらゆる全てを享受できる。様々なものが入り組みあいながら絶妙なバランスを取りながら時間が進んでいく。高層ビルの間に架けられた細い綱の上を歩いているような社会。想像もできないような仕組みが存在してるのだろうと思います。私なんかには触れることはもちろん、遠目に拝むことすらできないものなのでしょう。あふれる情報のなかで、真実?事実?正体?陰謀?、自分とは無関係ではないものの手が届くわけではない得体のしれないなにか?ただただ目の前の今現在そこにあるもの、手で触れることのできるもの、そこに寄りかかって生きていくだけなのではないだろうか。
人間はひとりじゃない?人間はひとりぼっち?
人間とは群れをなす社会性のある生物なのでしょうか。
目指すは小ぎれい
主観が大きく関わるところでしょうが、汚い、小汚い、小ぎれい、綺麗の境界とはどのようなものなのでしょう。掃除をしていて綺麗になったなと実感するのですが、ここで実感する綺麗はそもそもの汚い状態に寄生している感覚です。本質的にキレイなのではなく掃除前と比べたら綺麗だというだけの事です。気合を入れて掃除をする機会は、来客の前がほとんどの私ですが、掃除後の綺麗という主観が必ずしも掃除前を知らない来客の印象とは一致しにくいということです。キレイ度合いは人それぞれ、快適さの度合いもそれぞれ、あまりにもピカピカでは落ち着かないという人も少なくないのではないでしょうか。小汚いより少しましな小ぎれいがちょうどいいのではと思うもののその具合はこの先も見つけられないまま、試行錯誤が続くのでしょう。
他人のことを考えるときは限度をわきまえる
知らぬが仏
自分の事は案外わからないもの
潜在ニーズは埋めたまま発掘しないこと
スマホという小さなインターフェース
自分を知らない他者に認められたところで
むしろ腹立たしくはならないのか
やらない人間主導から、やる(やった)人間主導へのシフト
自分にできないことは他人に頼むわけです。でもできない側が主導するとおかしなことになりやすい。もっとひどいのは、できないもの同士で話を進めてしまうことです。できる側(本当の意味でのできるは次元が高い)が主導した方がうまくいくと思っています。
自分でやらないことは他人に頼むわけです。でもやらない側が主導するとおかしなことになりやすい。もっとひどいのは、やらないもの同士で話を進めてしまうことです。やる側(本当の意味でのやるは次元が高い)が主導した方がうまくいくと思っています。
ベーシックインカム
ベーシックインカム
不労所得 = 国力
労働力のターゲットを不労所得の強化に向ける
だけの人を支える人々
麦茶を飲むだけの人
飯を食うだけの人
トイレットペーパーを使うだけの人
氷を使うだけの人
ゴミを出すだけの人
服を着るだけの人
見苦しい着地しかできない人々
そんな暴君に果敢に挑む勇者たちがいる。
弱肉強食
弱い者の肉を強い者が食うという強烈な四字熟語、自然淘汰の原則の中で現在生き残っている者たちは強者ということになります。己を守るために他者を攻撃することに長けているということです。
いじめ
いじめは弱肉強食とは違うものなのでしょうか。違うとすれば何なのか。同じだとすればいじめは悪いことなのか。
なんかアイツむかつくわ・・・・ 自分を脅かす存在の出現
何もしてないのに勝手に相手がそんな感情を抱き、気づいたら締め出されている。自然と何かしらの驚異を与えてしまっている。自分を守るために仲間を集め集団でその脅威を排除しようとする。自分にとっての脅威(弱者の場合も強者の場合も考えられる)をたたくという行為は生き残るために強者になろうとするのプロセスの重大な因子のようであるが反対に脅威をたたくことを良しとしない考え方を持つものもいる。
承認と否定 ほめると文句
出力量
エンジンなどのスペックの評価に出力というのがあります。人間にも単位こそ違いますがさまざまな出力量があります。時給、日給、月給、年収といったお金の出力量。一分間に皿を何枚洗えるか、玉ねぎやジャガイモの皮を何個むけるか、走ったり歩いたりする距離、持ち上げたり移動したり、釘を何本打てるか、何㎡塗装できか、何m配管できるか、などなど人間が行う動作全ての出力には量や質に個人差がありそれは個人特有のものです。
強者に出くわした時
日頃、自分より強い人、例えば、頭がいい、容姿がいい、仕事ができる、お金を持っている、センスがいい、肩書がある、(等々様々な感覚があると思いますが)といった自分のスペックを上回るであろう人に出くわした場合、近づこうとする反応と遠ざけようとする反応の二通りに大別されると思います。取り入ろうとするか、逃げるもしくは叩くか、私個人は反射的に後者を選択しているように思います。
真のDIYの着地
真のDIYの着地点、真のDIYのゴールはすべての決断を自ら行う事ではないかと考えるようになりました。自ら・・・自分を認める、自分を許す、自分を褒めるといったような、私は、こうだ、これでいいのだというような納得感というような状態にあることのような。
『家は3回建てないと満足できない、理想の家にはならない』と言われることがあります。人によってこの言葉の捉え方は様々でしょう。住宅を新築する場合、ほとんどの事柄が施主自らの力だけでは決断にまでは至りません。いろいろな分野の専門家の意見を聞きながら一つ一つ決めていきます。いろいろなことを一つ一つ決めていくプロセスの中で【おまかせ】の要素の占める割合に応じて【満足・理想】の程度が左右されているように思えて仕方ありません。このおまかせは作り手にとってはいろいろと都合の良いことになります。施主にとっても決断を自らしなくても良いので楽といえば楽なのですが、時間のかかるお互いのすり合わせを省いてしまうので、後にトラブルになる可能性が高いです。博打みたいな感覚です。手間のかかるすり合わせを省かずに施主自らの決断にたどり着けるかが【満足・理想】の程度に大きくかかわっているようです。作り手の提案には自然と作り手自身の好みが大きくかかわっています。よって作り手と施主には相性のようなものがあるはずです。この相性の良し悪しもおまかせの行く末に関係してもいます。
感謝とマウント
施しには沸々と感謝がこみ上げてきますが、施された自分を買い被り他者に対してマウントを取ることをよく見かけます。例えば『あの人からあれをもたらった』とか『これがこんなに安く買えた』とか『』などです。そもそもマウントは生物にとっては極々自然な反射のようなものだと思うのですが、施されたことをマウントに利用することはお門違いな気がします。あたかも自分の功績のようにひけらかされてはトラブルに発展しかねません。単に喜んでいるのだととらえられればいいのですが、当事者間でのやり取りに収めておけばよいものを第三者にまで広げてしまうのは注意したいものです。